アクティビズム:

日本における歩みと進化

2024-06-22
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日本では、企業の経営陣と投資家とのエンゲージメント(対話)を呼びかける日本版スチュワードシップ・コードが導入されてから10年が経過し、今日では株主アクティビズムが受け入れられつつあります。最近のアクティビズムの高まりは、株主価値の向上に向けた企業改革や経営行動の変化に役立っているようです。本稿では、日本におけるアクティビズムの歴史的な進化を踏まえ、「なぜ今なのか?」を議論するとともに、アクティビズムが株式市場や投資家に与える影響について考察します。

日本独自のアクティビズムへの道

欧米を筆頭に、企業の経営陣とオーナー/株主との間には、利益配分をめぐる争いが世界的に存在し、これがアクティビズムの長い歴史の始まりとなりました。アクティビズムの概念は、株式市場が拡大し、企業のオーナーだけでなく一般投資家からも資本を調達するようになり、経営と所有の分離が進むにつれ出現しました。

一方、日本は、株式持ち合い構造、メインバンク主導の資本主義、企業や投資家の集団思考のメンタリティなどにより、独特なアクティビズムへの道を歩んできました。アクティビストは、「アクティビスト」という言葉が登場するまで、 「ハゲタカ」 や「乗っ取り屋」といったネガティブなイメージで語られてきました。また、今でいうアクティビストの行動を取る企業に対して、反社会的な集団がその企業のスキャンダルの証拠を挙げて、恐喝や強要を試みるといった事例され見られました。

こうした 「ハゲタカ」 や外国資本の侵入から身を守るため、企業と、企業に金融資本を提供するメインバンクは1960年代から1980年代にかけて、株式持ち合い制度を形成しました。こうした持ち合い制度の下では、メインバンクと系列またはグループ・コングロマリットとも呼ばれるステークホルダーは、アクティビストがほとんど入り込む余地のないほどの企業統治を行いました。米国の乗っ取り屋、T・ブーン・ピケンズは1990年にトヨタグループの自動車部品メーカー、小糸製作所の株式を大量に買い占めましたが、トヨタグループのステークホルダーやメインバンクグループとの攻防の末失敗に終わるなど、株式持ち合い制度は強固な制度でした。第二次世界大戦後の日本経済は閉ざされた資本主義の要塞となり、外国資本の侵入から日本を防護する役割を果たす一方、健全なアクティビズムの浸透を妨げました。

しかし、1990年代に入ると、数々の金融危機によって日本のバブルが崩壊し、株式持ち合い制度の解消が進むとともに、日本の株式市場の所有構造に変化が現れました (図表1)

図表1:戦略的株主と投資家の株式保有状況

出所:東京証券取引所のデータに基づきウエリントン・マネージメント作成(2022年3月末時点)。※上記は過去の実績および将来の予測であり、将来の運用成果・市場環境等を示唆・保証するものではありません。

日本にアクティビズムの最初の波が訪れたのは2000年代初頭で、2008年の世界金融危機まで続きました。この間、投資家の村上世彰氏が率いる村上ファンドは、ニッポン放送、阪神電気鉄道、TBSなどの株式を大量に取得しました。さらに、米国の投資ファンドであるスティール・パートナーズ・ジャパンは、ブルドッグソースやアデランスに対して敵対的買収を行いました。

アクティビズムという概念は、日本の伝統的で閉鎖的な資本主義から見て、目新しく、革命的で、ユニークなものでしたが、一般株主、ステークホルダー、社会、市場からは支持を得るには至りませんでした。アクティビストの第一波は、対象企業のビジネスモデルを十分に理解することなく、単に短期的な利益で恩恵を受けようとしたにすぎませんでした。

スティール・パートナーズとブルドッグソースの争いは、最高裁判所がブルドッグソース側をアクティビストの株主権濫用から守る判決を下したことで2007年に終結しました。こうしたことに加え、村上氏がインサイダー取引で有罪判決を受けたことも重なり、日本におけるアクティビズムの第一波は徐々に衰退し、影響力を失っていきました。

日本におけるアクティビズムの現状

日本では、政府の取り組みがアクティビズム第二波のきっかけとなりました。世界金融危機に続いて、2010年代初頭の根強いデフレへの対応として、当時の安倍晋三首相は金融、財政、成長という3本の「矢」による改革を中心に据えたアベノミクスと呼ばれる経済政策を打ち出しました。

成長改革の一環として、2014年に日本版スチュワードシップ・コードが導入され、2015年にはコーポレートガバナンス・コードが導入されました。この2つのいわゆる「ダブル・コード」は、機関投資家に対して受託者責任を果たすよう促す一方、企業に対してもガバナンスを改善し、長期的な成長を持続するよう動機付けるものとなりました。ダブル・コードは、投資家と企業の二者間エンゲージメントと対話の礎となり、こうした2つの改革は、バリューアクトやパーシング・スクエアといった長期的な視野を持つ米国アクティビストのみならず、国内アクティビストも招き入れ、株主価値を高めることになりました。

日本における第一波のアクティビズムとは異なり、今日のアクティビストは必ずしも企業の経営陣と対立しているわけではありません。むしろ昨今では、経営陣はアクティビストの外圧を意図的に利用して、改革に抵抗する強力で頑迷な内部抵抗勢力の解体に動いています。1853年に日本に来航した西洋の船が鎖国を続けてきた江戸時代を終わらせ、政権交代を経て明治時代に入ったことを思い浮かべれば、今日の両者の関係は「黒船」の再来にも例えることができます。今日では、国内外のアクティビストが経営陣と連携し、不採算事業の切り離しなど、大胆な経営改革を断行するといった事例がしばしば見られます。

図表2:日本におけるアクティビズム — 過去と現在の比較

出所:ウエリントン・マネージメント(2023年時点)。

時は流れて2023年。政府が再び主導する形で、東京証券取引所が株価純資産倍率の低い上場企業に圧力をかけ、動きが鈍く、低品質・低利益の企業を目覚めさせ、改革を促すという動きが見られます。かつて「ハゲタカ」と呼ばれたアクティビストは、日本企業に対する政府の圧力とも呼応して、今では企業経営改革の「救世主」として活躍する場を得るに至りました。

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泉 聡基

インベストメント・スペシャリスト